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大阪地方裁判所 平成6年(ワ)5729号 判決

原告

三晶株式会社

右代表者代表取締役

溝手敦信

右訴訟代理人弁護士

山内敏彦

河合宏

被告

森佳奈子

森章浩

被告兼右両名法定代理人親権者母

森純子

右三名訴訟代理人弁護士

藤井勲

出井義行

主文

一  被告らから原告に対する大阪高等裁判所平成五年ネ第一九一三号・第一九七七号損害賠償請求各控訴事件に関する判決に基づく強制執行は、主文第二項に基づく被告森純子から原告に対する関係では金三六九万〇二一六円及びこれに対する平成五年八月一九日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を合算した額を超える部分について、主文第三項に基づく被告森佳奈子から原告に対する関係では金二三万九五七七円及びこれに対する平成六年六月一日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を合算した額を超える部分について、主文第三項に基づく被告森章浩から原告に対する関係では金四四二万二三七一円及びこれに対する平成五年八月一九日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を合算した額を超える部分について、それぞれこれを許さない。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告らから原告に対する大阪高等裁判所平成五年ネ第一九一三号・第一九七七号損害賠償請求各控訴事件に関する判決主文第二項及び第三項に基づく強制執行はこれを許さない。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

第二  事案の概要

本件は、労災事故によって死亡した労働者の遺族である被告らに対し確定判決により合計四六〇二万六〇五四円の賠償金を支払うよう命じられた原告が、最終口頭弁論期日の後、合計三七三五万六〇五四円を任意に弁済したうえ、残額八六七万円(遺族補償年金前払一時金の最高限度額に相当する額)については労働者災害補償保険法六四条一項一号所定の履行猶予を求める旨の意思表示をしたので、これらにより債務名義の効力が全て失われたとして、強制執行の不許を求めた事案である。

一  争いのない前提事実等

1  被告森純子は亡森秀樹の妻であり、被告森加奈子・同森章浩は亡森秀樹の子であるが、右三名は亡森秀樹が平成四年五月二五日に原告の物流センター内において労災事故のため死亡したことを原因として原告を被告として大阪地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起し、平成五年七月一二日に一部認容の仮執行宣言付き判決がなされた。これに対し双方が控訴し、大阪高等裁判所平成五年ネ第一九一三号・第一九七七号事件として審理されたが、平成六年四月二〇日に、原告に対し合計四三九二万八二六八円の支払いを命ずる旨の控訴審の判決がなされ、これが確定した(以下、「本件確定判決」という。)。

本件確定判決の主文第二項は、原告は被告森純子に対し金一二九三万二二一八円及びこれに対する平成四年一一月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払えというものであり、同第三項は、原告は被告森佳奈子及び森章浩に対し各金一五四九万八〇二五円及びこれらに対する平成四年一一月二五日から支払済みまで年五分の割合による各金員を支払えというものである。

2  原告は、一審判決後の平成五年八月一八日に、右訴訟での被告らの訴訟代理人である藤井勲弁護士に金三三〇〇万円を預託し、右控訴審判決確定後の平成六年五月九日に、右弁護士に対し右預託金を弁済金に充当されたい旨の意思表示をなすと共に、残金の計算を求めた。

これに対し、右弁護士は、右三三〇〇万円を本件確定判決元本の合計額四三九二万八二六八円とこれに対する平成四年一一月二五日から平成五年八月一八日までの金利一六〇万六六九一円の合計額に充当すると残金は一二五三万四九五九円であり、右残金とこれに対する平成五年八月一九日から平成六年五月三一日までの金利四九万一〇九五円の合計額は一三〇二万六〇五四円になるとの計算書を示した(甲3)。

3  そこで、原告は、同月三一日付けで右弁護士に対し右元利合計金一三〇二万六〇五四円の内金四三五万六〇五四円を支払ったので、未払残金は八六七万円となった。

もっとも、右弁護士は、同年五月二六日付けで原告の代理人弁護士に対し、前記三三〇〇万円は被告三名の平成五年八月一八日までの損害金、被告森純子、同森章浩の元本全部、被告森佳奈子の元本の一部の順に順次充当したので、残額は被告森佳奈子の残元本及びその後の損害金である旨を通知している(乙1)。

4  原告は被告らに対し、本件訴状をもって、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」と略す。)六四条の規定に基づき、右未払残金八六七万円(遺族補償年金前払一時金の最高限度額に相当する額)について履行猶予を求める旨の意思表示をなし、右訴状は平成六年六月二七日被告らに到達した。

二  争点

1  判決確定後の右各任意弁済金の充当の方法

(原告の主張)

(一) 原告が判決確定後に被告ら代理人に任意に支払った前記金三三〇〇万円及び金四三五万六〇五四円は、本件確定判決の認める被告らの各債権額に按分して充当されたものと解すべきである。

けだし、債務者の提供した弁済資金が多数の債権者の債権合算額に足りない場合と、債務者が同一の債権者に対して同種の目的を有する数個の債務を負担しているときに弁済として提供した給付がその債務の全部を消滅させるに足りない場合とは本質的に異なっており、前者の場合には、弁済受領者の一方行為による弁済の充当についての規定である民法四八八条は適用されず、特段の合意のない限り、殊に債務者の弁済の利益にかかわる場合には、各債権者の債権額に応じた按分比例による配分がなされるべきであるからである。

(二) 原告は、被告らに対して後述のように履行猶予の抗弁権を有しており、按分配分について弁済の利益を有しているから、被告らはこれを害するような任意弁済金の分配をしてはならないのであって、これに反する被告らの弁済充当の意思表示(乙1)は、無効である。なお、原告は、右弁済充当の通知に対してはその到達後間もなく本訴を提起しており、被告らと分配につき特段の合意はなされていない。

(三) さらに、被告らの一方的な充当は、原告の履行猶予の抗弁権を悪意により詐害するもので信義則に反し、かつ、権利の濫用にあたり無効である。

(被告らの主張)

(一) 平成五年八月一八日付けの任意弁済額三三〇〇万円について、被告ら代理人は、平成六年五月二六日付の通知(乙1)で、これを、平成五年八月一八日までの被告ら三名の損害金、被告森純子、同森章浩の元本全部、森佳奈子の元本の一部の順に充当する旨を通知したから、未払分は、森佳奈子の元本残額一二五三万四九五九円とこれに対する平成五年八月一八日以降の損害金となった。

なお、原告は右の充当につき速やかに異議を述べなかった。

(二) その後、原告は平成六年五月三一日に四三五万六〇五四円を支払ったので、残額は八六七万円となったが、これは被告森佳奈子のみにかかるものである。

2  損害賠償請求訴訟の確定後に新たに履行猶予の抗弁を主張しうるか否か

(原告の主張)

労災保険法六四条一項は、同一損害について労災保険給付と損害賠償債務の履行との二重の給付による二重填補すなわち不当利得を避け両者を調整する目的のもとに、事業主に対して、遺族補償年金前払一時金に相当する額の損害賠償債務について履行猶予の抗弁権を与えている。右抗弁権は形成権の一種であるが、事業主は、労災年金が履行猶予の額を超えて支払われた相当額の部分について、又は、履行猶予の抗弁をしなかった場合は口頭弁論終結後に支給された労災年金の相当額の部分及び口頭弁論終結後に支給さるべき労災年金の相当額について、口頭弁論終結後に新たに履行猶予の抗弁権を行使することができ、これを新たな異議事由として確定判決に対して請求異議を主張し得るものと解すべきである。

右の如く解すべき理由は以下のとおりである。

(一) 口頭弁論終結前に履行猶予の抗弁権が行使された場合に、当該猶予期間中に支給された具体的労災年金は、口頭弁論終結後に履行猶予の抗弁権が行使されて当該猶予期間中に支給される具体的労災年金とは異なる別個のものであって、それぞれ行使の法律効果が異なる。したがって、前者の具体的抗弁権と後者の具体的抗弁権とは同一性を有せず、別異のものといわねばならない。そして、確定判決の既判力の遮断効は後者には及ばないから、後者の主張は、民事執行法三五条二項の請求異議事由の時的制限に抵触するものではない。

(二) 実質的にみても、損害賠償請求訴訟の口頭弁論終結後、年金が支給された場合には、その限度において損害賠償債務が消滅し、新たな請求異議事由となり、年金と賠償との二重取りによる重複填補が回避される。このことからすれば、当然に、口頭弁論終結後においても六四条一項二号所定の履行猶予額の限度において、重複填補を避けるため、新たな履行猶予期間を設定することは許されねばならない。それは、民事執行法三五条二項の争訟の蒸返しによる執行遅延防止に反するものではない。

口頭弁論終結後の履行猶予権の行使によって新たな猶予期間が設定されるが、猶予期間中、遺族は新たな支分年金を受給するのであるから強制執行の猶予による損害を被るものではない。また、労災年金は事業主である原告が納付した労災保険料の対価であって、原告が一定額の損害賠償債務の履行猶予を求め、その間に労災年金による損害の填補がなされるのは実質的にみても正当なことである。

この具体的履行猶予権は、口頭弁論終結以前のものとは異なり、新たに発生するものである。これを否定することは、年金と賠償の二重取り、損害の重複填補を是認することになる。二重取りの利得を許すことは正義に反するのであって、正義に反してまで、口頭弁論終結後の履行猶予の抗弁権の行使を排斥するべきではない。

(三) また、履行猶予の抗弁権は形成権であって、形成権は、一般的に、口頭弁論終結後の行使が許されるから、その行使によって口頭弁論終結後に新たに履行猶予の法律効果が形成され、請求異議事由となるのである。

(四) ちなみに、本件においては被告らは遺族補償年金前払一時金の請求をせず、かつ、亡森秀樹死亡後二年の時効期間が経過したことにより前払一時金の請求権は消滅しているが、右履行猶予の抗弁権はそれによって左右されない。

(被告らの主張)

(一) 原告の主張する履行猶予の抗弁は、本件確定判決の既判力に抵触し、もはや行使し得ない。すなわち、労災保険法六四条一項の履行猶予の抗弁権は単なる抗弁権であって、特に形成権としなければならない理由はなく、弁論主義、処分権主義の適用される民事訴訟のもとにおいては、最終口頭弁論期日までに当事者がこれを援用しなければ、既判力によって遮断されるものである。

(二) 仮に、履行猶予の抗弁権が形成権であるとしても、最高裁判所の判例は、相殺の意思表示以外の形成権の行使は既判力に抵触するとしている。

3  履行猶予の抗弁権は、遺族補償年金前払一時金の受給権者以外の損害賠償請求権者に対しても主張し得るか否か

(原告の主張)

履行猶予の効果は、一時金の受給権者に対してのみならず遺族たる損害賠償請求権者全員に対しても主張し得る。なぜならば、遺族補償年金は、遺族全員の生活を補償するもので(一六条の三)、受給権者一人だけの生活を補償するものではないのであって、受給権者は他の遺族から法律自体によって授権されて当該年金を受領するものと解釈されるから、これによって他の遺族も事実上のみならず法律上も利益を得ているからである。したがって、事業主が当該一時金相当額の損害賠償義務の履行をすると遺族全員が二重の損害填補を受けることになるのである。また、このことは、履行猶予の効果が、当該前払一時金の最高限度額に相当する額全額について生ずるのであって、一時金の受給権者の相続分に応ずる額についてのみ生ずるとはされていないことからしても明らかである。

仮に履行猶予を受給権者に対してしか主張できないとすると、遺族が受給権者一人のときは事業主は前払一時金全額について履行猶予を受け得るが、遺族が数人のときはその内の一人である受給権者の相続分を限度として前払一時金の一部だけについてしか履行猶予を受け得ないことになる。労災事故の被害者側の遺族の構成如何という偶然の事情によってこのような差異が生ずる結果となるのは、不合理である。

(被告らの主張)

労災保険法六四条一項一号の履行猶予の抗弁は、前払一時金の受給権者に対してのみ有効である。

ところで、本件の受給権者は被告森純子のみである(労災保険法一六条の二第三項)が、被告らは、前記のように原告の任意弁済金合計三七三五万六〇五四円を1項の(被告の主張)(一)のとおり充当したから、本件確定判決については、履行猶予の対象となる被告森純子の債権は残存しておらず、被告森佳奈子の債権が残っているだけである。被告森佳奈子は労災保険法六〇条、六四条関係の年金受給権者ではないから、これに対して履行猶予の抗弁を主張することはできない。

4  仮に履行猶予を主張し得るとして、その金額はいくらになるか

(原告の主張)

履行猶予の対象となる金額は、伊丹労働基準監督署が遺族補償年金の前払一時金給付の最高限度額として認める金額に相当する金八六七万円である。

(被告らの主張)

本件確定判決の損害額の算定の際に、被告森純子の関係で既受領の労災保険給付(遺族補償年金)三五一万三八三三円が控除されているから、仮に履行猶予が認められるとしても、原告主張の八六七万円から右金額を控除した残金五一五万六一七六円の限度にとどまるべきである。

第三  争点に対する判断

一  判決確定後の任意弁済金の充当の方法について

1 債務者が、複数の債権者を代理する一人の代理人に対し、全債権者の債権を満たすに足りない金額を支払った場合に、右弁済金をどの債権者の債権の弁済に充てるべきかは、弁済者たる債務者の意思に従って決定されるべきものである。

本件においては、第二の一1、2項に記載したように、亡森秀樹の妻及び子である被告らが原告となって、本件訴訟の原告を被告として労災事故による損害賠償請求訴訟を提起し、その請求をそれぞれ一部ずつ認容する仮執行宣言付きの第一審判決(乙2)がなされた後に、原告の訴訟代理人は右訴訟での被告らの共通の訴訟代理人である藤井勲弁護士に金三三〇〇万円を預託し、その後、原告に対し被告らに対してそれぞれ一定の金額を支払うように命ずる控訴審判決が確定した後に、右藤井弁護士に対し右預託金を弁済金に充当されたい旨の意思表示をしたものである。その際に、右預託金を誰の債権に充当するのかは明示的に指示されてはいないけれども、右の経緯に照らして債務者たる原告の訴訟代理人の意思を合理的に推認するならば、これを控訴審判決によって認められた被告らの債権額(元本額)に応じて弁済する趣旨のものであったことは客観的に明らかであったというべきである。現に、右意思表示を受け、残金の計算を求められた藤井弁護士においても、右三三〇〇万円を本件確定判決元本の合計額四三九二万八二六八円とこれに対する平成五年八月一八日までの金利の合計額に充当すると残金は一二五三万四九五九円であり、右残金とこれに対する右以降の金利の合計額は一三〇二万六〇五四円になるとの計算を示し、被告ら各自の債権を区別することなくこれを合算して処理しているのであって、その趣旨を合理的に解釈すると、右の預託金は被告らの債権額に応じて充当されたことを暗黙の前提としているものと解されるのである。

したがって、右三三〇〇万円は、弁済者たる原告の黙示の意思表示に従って、控訴審判決によって認められた被告らの債権額(元本額)に按分して弁済されたものと解される。なお、各被告らの債権のなかでは民法四九一条により利息(遅延損害金)から先に充当されることになる。また、右預託金を預託の時点である平成五年八月一八日に溯及して弁済に充当することについて双方に争いがないことが、右藤井弁護士の計算から明らかである。

以上に従って、右三三〇〇万円の被告らごとの配分額及び充当の内訳を計算すると、別紙計算表の第2欄ないし第4欄のとおりである。

2 次に、平成六年五月三一日付けで弁済がなされたことについて当事者間に争いがない四三五万六〇五四円の配分、充当について検討する。

右金四三五万六〇五四円は、実際には平成六年五月二五日付けで原告から被告らの共通の訴訟代理人である藤井弁護士に振込送金されているが(甲4)、第二の一3項記載のように、同弁護士は、翌二六日付けで原告の訴訟代理人に対して前記三三〇〇万円は被告三名の平成五年八月一八日までの損害金、被告森純子、同森章浩の元本全部、被告森佳奈子の元本の一部の順に順次充当したので、残額は被告森佳奈子の残元本及び以後の損害金である旨を通知している。

藤井弁護士の右通知が、既になされた前記三三〇〇万円の配分・充当の結果を左右し得るものでないことはいうまでもないが、新たに送金された金四三五万六〇五四円については、これを被告森佳奈子の債権の弁済として受領する趣旨の意思を、合意による弁済充当日である平成六年五月三一日に先立って表示したものであることは明らかである。

ところで、右四三五万六〇五四円を誰の債権の支払いに充てるのかについての弁済者たる原告側の意思は明示的に指示されてはいないけれども、これが被告らの残債権を合算して表示した前記藤井弁護士の計算書に応じてその残額の一部を送金しているものであることなどに照らすと、原告側の当初の意思は、先の三三〇〇万円を配分して弁済充当した後の被告らの残債権額(元本額)に応じてこれを弁済する趣旨のものであったものと推認することができる。そうすると、既に藤井弁護士が前記のような意思を表示している以上、被告森佳奈子への按分分配額以外は弁済の効果を生じないことになる。しかし、他方で、当時既に原告側としては残額八六七万円については履行猶予の抗弁を行使して本件請求異議訴訟を提起することを決めていたところ(乙1)、右抗弁権の相手方は前払一時金の受給権者に限られるものではないとの見解を有していたのであるから、少なくともこの時点では弁済受領者が被告らのうちの誰であるかということには特にこだわる必要はなく、むしろ残金を八六七万円に減少させることにこそ関心を有していたと推認されること、原告の代理人も合意による弁済充当日である五月三一日までの間に被告森佳奈子の債権の弁済として受領する旨の意思の前記藤井勲弁護士の表示に対して特に異議を述べておらず、本訴においても残額が八六七万円であることについては争いがないなどと無条件に主張していることなどを総合すると、原告側としては、藤井弁護士が被告森佳奈子の債権の弁済として受領するとする以上これに応ずる意思であったと考えられ、このことは客観的にも明らかであったといえるから、右四三五万六〇五四円は黙示の合意により平成六年五月三一日の時点で被告森佳奈子の債権の弁済に充てられたと解される。

以上によって、右金額充当後の被告らごとの本件確定判決についての残債権額を計算すると、別紙計算表第5欄ないし第7欄のとおりである。

二  損害賠償請求訴訟の確定後の新たな履行猶予の抗弁の可否について

1  労災保険法六四条は、労働災害によって生じた損害について、労災保険給付と民事上の損害賠償の重複を避けることを目的として、労災保険給付と民事上の損害賠償との間の調整措置を規定している。すなわち、同条一項においては、民事損害賠償の側からの調整措置を設け、同条二項においては、労災保険給付の側からの調整措置を定めているのである。

右六四条第一項の調整措置は、昭和五二年一〇月二五日の最高裁判所の判例により損害賠償から控除の対象となるのは現実に給付のあった年金額に限られるとされたことから、二重填補を回避するためその間の調整措置の必要が生じていたところ、従来遺族(補償)年金に限られていた年金の前払一時金等の制度が、昭和五五年の法改正によって障害(補償)年金にも拡充されたことによって確実に給付が受けられることが法的に保障された部分(保障給付部分)が拡大したことにあわせて、この保障給付部分についても民事損害賠償額との調整を行うこととしたものである。ただし、その調整方法は、右保障給付部分について使用者の損害賠償責任をあらかじめ免責するのではなく、事業主に対して前払一時金の最高限度額に相当する額の法定利率による現価の限度で、民事損害賠償の履行の猶予を認め、後に実際に労災保険から給付が行なわれた時点で、その給付額を最終的に免責することにしている。また、同条第二項の調整措置は、労災保険給付に相当する部分を含む民事損害賠償が先行して行なわれた場合には、政府は、その労災保険給付に相当する部分の価額の限度で、労災保険給付の支給を行なわないことができるとしたものである。

2 したがって、右調整規定により、事業主は、労働者ないしその遺族からの民事上の損害賠償請求に対して、前払一時金の最高額相当額の現価について履行の猶予を求める私法上の抗弁権を与えられたのであるが、しかし、これを裁判上行使する場合においては、事実審の口頭弁論の終結時までに主張しなければならないのであって、これをしないままに、右抗弁を主張した場合に猶予されたであろう額を含めて損害賠償を命ずる判決が確定したときは、その後になって、右抗弁を主張して確定した損害賠償債務について履行の猶予を求めることはできないものと解される。

けだし、弁論主義に基づく民事訴訟のもとにおいては、判決の基礎をなす事実の確定に必要な資料の提出や自己に与えられた私法上の権利の行使は、当事者の権能と責任に委ねられているのであるから、当事者が履行猶予の抗弁の主張をしなければ裁判所はそれに基づいて判断することができず、その結果、抗弁が主張されていれば猶予されたであろう額をも含めて損害賠償額を算定した認容判決が確定したとしても、その不利益は、当事者が自ら甘受するべきものである。そして、紛争解決の一回性の理念のもとに、事実審の口頭弁論終結時を標準時として訴訟当事者の権利関係を確定し、それ以前に存した事実を理由として右判決の内容を争うことを許さないこととして権利関係の法的安定を図っている既判力の趣旨からすると、右口頭弁論終結時以前に主張し得た履行猶予の抗弁権を判決確定後に主張して訴訟によって確定した権利関係の変更を図ることは許されない。したがって、請求異議訴訟の場において、右既判力の標準時までに存在した履行猶予の抗弁を新たに主張することは許されないというほかはない(民事執行法三五条二項)。

これを本件についてみると、本件確定判決の口頭弁論終結以前に、被告らは遺族補償年金の前払一時金を請求することができる場合に該当したことが明らかで、原告はこれに相当する額について履行猶予の抗弁を主張し得たのであるから、これをしないままに本件判決が確定した以上、もはや右抗弁を請求異議の事由とすることはできないというべきである。

3 これに対し、原告は、口頭弁論終結の前に行使し得た履行猶予の抗弁権と、終結後に行使された本件の履行猶予の抗弁権とは、別異のもので、既判力の遮断効は後者に及ばないかのように主張するが、独自の見解というほかはなくこれを採用しがたい(ちなみに、事業主が民事損害賠償について履行の猶予を求め得るのは、先に見たとおり遺族側が遺族補償年金の前払一時金を請求し得ることと対応しているのであって、右一時金請求の権利が複数あるわけではなく、その請求は労災保険法施行規則付則第三三項、第二七項により一回限り認められるにすぎない。)。

また、原告は、実質的にみても、口頭弁論終結後においても労災保険給付と民事損害賠償との重複補償を避けることが正義にかなうのであって、口頭弁論終結後に新たな履行猶予期間の設定を認めたとしても、遺族は労災年金を受け得るのであるから格別の不利益はないかのように主張するが、重複補償の回避は、前記六四条二項によって民事損害賠償が先行して行なわれた部分に相当する労災保険給付の支給を行なわないことによっても可能であるし、遺族側の利得を理由に、訴訟上なし得た主張を怠った事業主に対して紛争解決の一回性の理念を曲げてまで新たに履行猶予の抗弁を主張する機会を与えるべきであるとも考えられない。また、原告は、口頭弁論終結後の年金給付が請求異議事由となることとの対比からして口頭弁論終結後の履行猶予の主張が許されるべきであるようにも主張するが、前者は前訴訟において主張できなかった事由であるのに対し、後者は主張が可能であったのであるから、問題が全く異なるのである。ちなみに、遺族が口頭弁論終結前に受領していた遺族補償年金を事業主が訴訟で主張しなかった場合には、後でこれを請求異議の事由とはなし得ないのであって、事業主はこの部分を重複して補償するしかないが、これを正義に反するとはいわないのである。したがって、原告の以上のような実質論も採用できない。

さらに、原告は、履行猶予の抗弁権は形成権であるから、口頭弁論終結後の行使が許されるとも主張する。しかし、労災保険法六四条一項は、先にみたとおり労災保険給付と民事上の損害賠償の重複を避けるために、事業主に対して前払一時金の最高額相当額の法定利率による現価の限度で、民事損害賠償の履行の猶予を求めることを認めているだけであって、これを形成権であるというかどうかはともかく、その訴訟上の行使を最終口頭弁論の終結まで行なわせることについては何らの支障も考えられないのであって(むしろ、右履行の猶予は実質的には前払一時金の受給の可能性を前提としているのであるから、その行使は比較的早期になされるのが通常であると考えられる。)、これを紛争解決の一回性を理念とする既判力による遮断の例外とする理由はない。したがって、右主張も採用できない。

4  以上のとおりであるから、原告の履行猶予の抗弁は、争点3及び4について判断するまでもなく、すべて理由がない。

三  結論

以上の次第で、本件確定判決によって認められた被告らの原告に対する損害賠償請求権に対しては、判決確定後に合計三七三五万六〇五四円の任意弁済がなされており、これらが、別紙計算表の第2欄ないし第7欄のとおり各被告ら分配されその損害賠償請求権の元本及び利息の弁済に充当されたことが認められ、その残額は同表第7欄のとおりになる。したがって、右金額(被告森純子について金三六九万〇二一六円及びこれに対する平成五年八月一九日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員、被告森佳奈子について金二三万九五七七円及びこれに対する平成六年六月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員、被告森章浩について金四四二万二三七一円及びこれに対する平成五年八月一九日から支払済みに至るまで年五分の割合による各金員)を超える部分については、本件確定判決に基づく被告らの原告に対する強制執行は許されない。

よって、原告の請求は右の部分について本件確定判決の執行力の排除を求める限度においては理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条但し書きをそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小田耕治 裁判官栗原壯太 裁判官中山誠一)

別紙計算表〈省略〉

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